空 /上/



 ̄ ̄序章__

 彼女はクラリネット吹きだった。
 小さな町の、小さな学校の、小さなクラリネット吹きだった。
 彼女が奏でる音と曲は、その小さな町で好まれていた。
 クラリネットの音は、いつも学校の屋上から聞こえてくる。
 曲の多くは、彼女のオリジナルだった。
 いろいろな曲調で、いつも夕方に、その音は聞こえてくる。
 それを待っている人は、多かった。

 ある日。今までの曲とは、明らかに違う曲が聞こえてきた。
 儚くて、哀しくて、寂しくて、それでいて愛しい、そんな曲だった。
 その日を境に、その曲は毎日演奏された。
 その曲に、涙した者もいる。
 ――今回は、「その曲」に秘められた話を語ることにしよう……。




 ̄ ̄1__

 夏休みは丁度二週間前に終わっていた。
 ようやく実力考査も終わり、生徒達は学校からの帰り道を軽やかに駆けていく。
 時間は、もうすぐ5時。青い空が、徐々に暗くなる、その1歩手前だ。
 そんな中、彼女はまだ学校にいた。
 暗い、いつもの音楽室である。
 そこで彼女は黒い西洋の楽器――クラリネットを組み立てていた。
 彼女の名前は『日ノ出 明未』 この町では、少しだけ有名な生徒だった。
 放課後、学校の屋上から聞えてくる音。
 それを奏でているのが彼女であり、彼女のクラリネットであった。
 彼女は組み立てを終え、教室を出た。
 余談だが――『日ノ出 明未』の名前がこの町を飛び出したことがあるのは1度だけである。
 3年前の夏のコンクール。彼女はそこで、最優秀賞をとった。が、それっきりだ。
 その時は新聞に名前が載ったりもしたが、それ以上彼女は大会に出なかった。
 有名になろうとしなかったのだ。
 でも、それ以来、彼女は毎日――天候の悪い日や、自らの体調が悪い時は別だったが――この学校の屋上で吹いている。
 練習ではない。人に聞かせているわけではない、ただ、吹きたいから吹いていると、彼女は言う。
 どうして屋上なのか。
 それは、狭い部屋よりは、外の方がのびのびと演奏できるから、だそうだ。
 結果的に、それが人に聞かせているということを、彼女は理解しているのだろうか。
 彼女の楽器の音は最優秀に相応しく、美しい、心を癒すような響きだった。
 奏でる曲も、美しい物ばかりだった。
 聞いたことのあるクラシックから、今話題の曲、彼女が作曲したオリジナルの曲まで、いろいろな曲を演奏している。
 町の人々は、騒ぎこそしなかったが、彼女の曲がとても好きだった。
 いつも、夕方の5時に、その音は鳴り始める。学校が、完全に終わった後だ。
 この時間にはテレビをつけず、窓を開けている人が多い。仕事の手が休まるのも、大体この時間だ。

 階段を上り、屋上への扉を、明未はゆっくりと開けた。
 その扉がいつもより重かったのは、どうやらこの風のせいらしい。
 屋上に出たとたん、強風が彼女の髪を掻き乱して去っていった。
 ふうっとため息をつき、いつもの場所――校庭側のフェンスへと歩いた。
 ここからだと、町の様子が良く見える。
 彼女はクラリネットを構え、大きく深呼吸した。
 何の曲にしようかと、指を動かしながら考える。
 オリジナルにしよう。昨日仕上げた、バラードを演奏しよう。
 そう決めて、ゆっくりと息を吸う。
 最初の一音は、しっとりとした、深い音であった。
 一瞬だけ。最初の一瞬だけは、全ての音が消えてしまったような錯覚を受ける。
 そして、音は風に運ばれて、町へ広がっていく。そこで、やっと他の音が戻ってくるのだ。
 クラリネットの音と、風や水の音は、互いに互いを取り込んで、溶けていく。
 彼女のバラードは、けしてクラリネットだけの音ではないのだ。全ての音が、その曲の時だけ、その曲の為に鳴り響く。
 美しいの一言に限る、曲と音である。
 風が、彼女の黒い長い髪で遊んでいる。それを気にしないようにしながら、彼女は演奏を続けた。
 明未は、1度音楽に入り込んでしまうと、なかなか反応できない。
 だから、気がつかなかった。
 自分の後ろに、誰かが立っているということに。
 旋律は風に乗り、風と舞う。それを奏でることに、彼女は喜びを感じる。
 ゆったりと終わりへ近づいて、音は徐々に消えていった。
 余韻が残る中、唐突にクラリネットの音ではない音が響いた。
 拍手だ。
 はっとして、明未は後ろを振り返った。
 見えたのは、空。否、青いの瞳を持った少年だった。髪は、日本人らしく黒い。
歳は、明未と同じくらい。
 その少年は拍手をしながら笑っていた。
「いい曲だね」
「あ、ありがとうございます……」
 明未は内心、驚いて、逃げ出したい気持ちだった。
 自分の曲を、こんな間近で聞かれたことは、久しぶりだった。
 しかも、全く知らない少年に、だ。
 青い目の少年はこちらの警戒に気がついていないらしく、ゆっくりと歩み寄って、彼女の隣にやってきた。
「あ、あの」
「ん?」
「君は、何でここに居るんですか?」
 失礼な質問だなと、明未は言ってから気がついた。
 慌てて弁解しようとするが、その前に、少年に先手をとられた。
 声を出して、笑われたのだ。
 明未はびっくりして、放心状態になってしまった。
「あははは……ごめん、ごめん。あんまり綺麗な曲だったから、ここに飛んできちゃった」
「え?飛んで、きた?」
 少年はニヤニヤしながら頷いた。
「俺、空って言うんだ」
「そ、ら?」
「そう。俺の名前。あんたは?」
「私は――明未」
「あ、け、み、ね。覚えておくよ」
 少年は瞳をゆっくりと細めて、屋上からの景色を眺めた。
「明未はさぁ、いつもここで吹いてんの?」
「え、あ、うん……」
 空は明未が右手に持ったクラリネットをちらりと見て頷く。
「綺麗だよなぁ、その音」
「クラリネットです」
「あ、そーいう名前の楽器かぁ。いいな、それ」
 妙に親しみの湧く人物である。
 明未は彼の雰囲気に飲まれていることに気がつく。
 不思議な少年だ。
「あーあ、日が落ちてきたなぁ……」
 明未は少年が見ている方向を同じようにして見た。
 西の方角は真っ赤に染まって、眩しいほどに光っていた。
「俺、そろそろ帰んないと」
 それを聞いて、明未ははっと思い出す。
「あの、さっき、飛んできたって言ってましたけど、それってどういう意味なんですか?」
 と、目の前の景色を見ながら、そう訪ねた。
「え?そのまんまだよ。音が聞こえたから、飛んできたんだ」
「本当に飛んで……」
 彼女はそう言いながら彼を見た。――つもりだった。
「あっ……」
 振り向いた先――彼女の隣に、空はもう居なかった。
 反射的に、明未は校舎内へ続く扉を見た。それは、しっかりと閉まっている。
 もしやと思って下を見てみる。……誰も居ない校庭を見て、ほっとため息をついた。
 彼は何処へ消えてしまったのか。
「空、か……」
 印象に残る名前だ。
 彼女は肩をすくめて、帰ることにした。




 ̄ ̄2__

 テストが終わったことで、生徒達の顔は、どこかすがすがしく見えた。
 事実、明未もやっと勉強から開放されて、嬉しかった。
 明未の家から学校までは、10分ほどかかる。その道の途中には、長い石の階段があった。
 彼女の家は、丁度一段上の地にあって、その階段を降らないと、通学路には行けない。
 その階段を駆け降りて、明未は学校へ歩く。
「おはよ、明未」
 声を聞き、明未は微笑んだ。そして、少し遠くに居る少女に手を振った。
 その声の主も、手を振りながら彼女へ走り寄ってくる。
「おはよう、絵美」
「おはよぉ〜。テスト終わったね」
 絵美は、彼女の友達である。いつも一緒に登校しているのだ。
 一緒に歩き出し、2人はいつものように話し始めた。
 朝のさわやかな風が、登校する生徒達の間を駆け抜けていく。
 頭上は、雲1つない、青空だった。
「そういえばね。昨日、吹いていたら、男の子と会ったの」
「屋上で?」
「うん」
「へぇ……知らない子だったの?」
「うん。名前、聞いたんだけど。空って言ってた」
「そら?変わってるね」
「でしょ?目が、本当に空みたいに綺麗で……青色なの」
「それはまた印象深い……」
 空の姿でも想像したのだろう。絵美は不思議そうに顔を歪める。
 明未もまた、昨日の少年の姿を思い浮かべた。
 確かに、印象深い少年だ。
「学校の転校生だったりして」
「この時期に?もう、夏休みあけてから2週間だよ?」
「家のじじょーってのがあるでしょ?」
「ああ……そうかも、ね」
 そうだ。きっとそうなのだ。
 昨日の少年――空は、きっと転校生。学校を見学しに来た時に、私を見つけたに違いない。
 明未は未だに気になっていることがあった。少年が「飛んできた」と言ったこと。
 それは、クラリネットの音を聞きつけて「飛んできた」――走ってきた、と、言うことなのだろうか。
 それとも――空を、「飛んできた」という意味なのだろうか。
 そんなこと、ある訳がないのだが、どうも気になってしまう。
 空を「飛んできた」なら、あの時、急に消えてしまった理由も分かる。
 飛んできたように、飛んでいってしまったのだ。
「明未〜?もしかして、歩きながら寝てる〜?」
 絵美がからかうように、しかし、心配したように言う。
 はっとして、明未は無理矢理笑顔を作った。
「寝てないよ。ただ、考え事」
「そう?なんだか、ぼーっとしちゃって」
「大丈夫だよ」
 彼女はやっと自然な笑みを浮かべてそう言った。
 ――あまり、深くは考えないようにしよう。



 2人は別々のクラスである。
 明未は絵美と別れて教室に入った。
「おはよう、明未」「おはよーっ」「よぉーっす」
「おはよう」
 いっせいに挨拶が飛び、彼女も微笑んで挨拶する。
「ねぇねぇ、明未」
 彼女が席へつくと、クラスメイトの1人――席が明未の後ろなのだ――が声をかけてきた。
「昨日、1曲しか演奏しなかったんだね」
「あー、うん。ちょっとね」
「昨日の、新曲?」と、別な生徒が会話に入ってくる。
「そうだよ」
「相変わらず、綺麗な曲だったよ」
「そうそう、綺麗だったねぇ」
「ありがとう」
 明未はにこりと笑った。
 その時、丁度朝の会開始のチャイムが鳴った。
 そして、いつもそのチャイムぴったりに登場するのが、彼女の女性担任、橋本だ。
 クラスの全員がその事を分かっていて、既に立っている者はいない。
 チャイムが鳴り終ると同時に、がらりと扉が開いた。
「さぁさぁ、朝の会を始めますよぉー」
 と、大きな声が本体と共に扉から飛び出してきた。
 橋本は、普段はおとなしい担任である。眼鏡に長身、長髪で、見た目からも超真面目と思われているほどだ。
 その人物が、第一声をニコニコして、しかも大声で言うものだから、クラスの中はざわざわと騒ぎ出す。
「先生、ご機嫌?ハイテンション?」
「みたいだね」
 友達の質問に、明未はそう答えた。
 ざわめく生徒達を前に、橋本はうんうんと何回も笑顔で頷いていた。
「今日は、朝の会を無しにしたいと思います」
「うっそーっ!」「なんで!?」「マジですか!?」
 と、驚きの声があがる。
 橋本はそれでもニコニコしていて、ちらりと教室の扉を見た。
「朝の会は、紹介の時間になります。と、いうことで、入ってきなさーい」
 そう言われると、扉は再び人物をこの教室に迎え入れた。
 その姿を見て、明未は、はっとする。
 少年は橋本に促されるまま、教卓の前に立った。
 生徒達から「おおー」と声があがった。
「初めまして。『御影 空』と言います。よろしく」
 少年――空はぺこりとお辞儀をした。
 その容姿に、再び「おおー」と声が。
 全員の目が捉えたのは青だ。澄みきった、まさに空のような青。
「それじゃあ……空君、1番後ろの席が空いてるから、そこに」
「はい」
 その席は、明未の斜め後ろだった。
 不思議な巡り合わせである。
 じっと空を見ていると、彼もこちらの視線に気がついたようで、にこりと笑った。
 それに、思わずどきっとする。
「それじゃあ、皆仲良くね!」
 そう言ったか言わないか、橋本はそのまま教室を出て行った。そして、鐘が鳴る。
 その瞬間、明未を含めたクラスの半数が思い出したはずだ。
 担任橋本は、可愛い男子を見るとご機嫌になるのだ。
「ねえ、明未」
 後ろの席の女子が面白そうに声をかけてきた。
「何?」
「空君の事、ずーっと見てたみたいだけど……もしかして、一目惚れ?」
「なっ」
 その一言で、明未は一気に気持ちが跳ね上がった。
 少女はくすくすと笑う。
「やっぱり、ビンゴ?」
「ち、違うよ。ただ、昨日、見たから……」
「見たって、空君を?」
「うん」
 自分の顔が、真っ赤になっているような気がした。

 空は、目以外は普通の少年だった。
 明るい口調で皆と話し、自己紹介をしているのを見て、明未はため息をつく。
 何故か、彼が気になる。
「明美ちゃん」
 と、声をかけられた。女子の友達だ。
「絵美ちゃんが呼んでるよ?」
「絵美が呼んでるの?」
 思わず繰り返して、明未はドアの方を見た。
 そこにはやはり、絵美が笑顔で立っていた。
「何?」
 明未は絵美に歩み寄って、不思議そうに訪ねる。
「転校生がこのクラスだって言うから、朝の話、思い出して」
「ああ……」
「それで?空って子だったわけ?」
「そう、だよ」
 苦笑しながら明未は言う。
 絵美はドアから必死に空を見ようとしている。
 その、熱烈な視線に気がついたのか、男子と喋っていた空がこちらを向いた。
 明未ははっとして思わず視線をそらす。絵美はにっこりと笑って手を振っていた。
「結構カッコいいじゃん」
 と、からかうように彼女は言う。言い返せない明未。
「およよ〜?」
 絵美は明未の顔を覗き込んで、顔がにやりと変わる。
「どうやらどうやら」
「なっ、何よ……」
 自分でもびっくりするほど、慌てている。
「いやいや、何でもありませんよぉ」
 何を思ったか、絵美の顔は物凄く楽しそうだ。
 明未はその逆で、嫌なのか、困っているのか、感情が整理できていない顔になっている。
「あーっと……明未、だよな?」
 と、いきなり名前を呼ばれて、明未はびくりと肩を震わせた。
 ゆっくりと振り向くと、彼女の視線は青いそれとぶつかった。
 空が、彼女の側に来ていたのだ。
「そ、空君……」
「ども。昨日会ったよな、覚えてる?」
「う、うん」
 その会話を聞いて、絵美は「ほぉー」っと言う。
「良かった。覚えてもらえてないかと思った」
 心底安心したように、空は息を吐いた。
 それは明未も同じで、覚えてもらえていて、正直嬉しかった。
「えっと……明未の友達?」
 空のその言葉はもちろん絵美に向けられたものだ。
「はーい。絵美だよ、よろしくね」
「よろしく。俺は空だ」
 にこりと笑う、空。そして、思い出したように
「あ、そうだ。2人にお願いがあるんだけど、いいかな?」
「え?」「んー?」
 と、2人は同時に言った。
「この学校、案内してほしいんだけど。いや、明未だったら1度会ってるし、いいかなって思ってさ」
「あ、い、う、うん……いいよ」
 少々慌て気味で、明未は承諾した。
 しかし、絵美は
「うーん、ごっめーん。私、今日は用事があるんだ。明未だけに頼んでくれるかな?」
 だけ、が強調されたのは気のせいだったのだろうか。
 空は「そっか」と言って明未に視線を向ける。
「いいかな?」
「う、うん。じゃあ、放課後にでも……」
 ちらりと絵美を見ると、彼女はこれ以上は無いだろうという楽しげな笑いを見せていた。
 どうやら、仕組まれたようで。
「ありがとな」
 空は再びにこりと笑った。




 ̄ ̄3__

 時間が過ぎるのは早い。特に今日は、今までにないほど早い。
 明未は、授業は終わって多くの生徒が帰っていく中、1人、窓辺でぼーっとしている。
 空を待っているのだ。彼は今――というより、この1日、クラスメイトの質問責めにあっている。
 彼女の手にはクラリネットのケースが握られていた。
 このまま音楽室に寄るつもりなのだ。もちろん、そこは最後に案内する予定。
「お待たせ」
 気がつくと、教室の中には2人だけになっていた。
「それじゃ、1階から順番に教えてくれるといいかな。今日1日、ここから出てないんだ」
 どうやら質問が多すぎて、放してもらえなかったようだ。
 明未はやっと笑顔になって、頷いた。
「あ、俺、笑っている顔の方が好きだな」
「へ?」
「だって明未、俺の前で笑ってくれなかっただろ」
「え?」
「なーんかさ、焦ってるか、驚いてるか、どっちかっぽくて」
「うっ……」
 はっきりと、表に出ていたらしい。
 明未は身を縮めて頬を赤くした。
「と、いうことで、そんなに焦んないでくれよ」
「う、うん……」
「それじゃ、案内よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げる空。
「よ、よろしくお願いします」
 と、それにつられて明未もぺこり。



「ここが、体育館。去年工事したばかりなの」
「ひっろいなぁ……床ぴかぴかだし」

「ここが、給食室。おばさん、こんにちは」
「ああ、この学校って、給食学校で作ってるんだ。こんにちは」

「ここが、美術室」
「なんか変な臭いしないか?――絵の具?」
「昨日、美術部が大きなポスター描いてたから……」

「ここは図書室だな」
「そう。今日は、貸し出しはしてないみたいだね」

「そしてここが」
「音楽室か!」

 空は音楽室に入るなり、興奮気味できょろきょろと辺りを見回した。
 音楽室の中には、ピアノと太鼓などの打楽器が置いてあった。
「いいなぁ……こういう雰囲気」
「音楽とか、好き?」
「ああ」
 彼はピアノの蓋を開けて鍵盤を叩いた。ぴんっと音が響く。
「今日はさ、クラ……なんだっけ?」
「クラリネット?」
「そう、それそれ!クラリネット、吹かないのか?」
 どうやらピアノの鍵盤を叩くのが楽しいのか、空はいろいろな音を響かせている。
「いつも5時からなの。時間決めてると、やりやすいから」
「なるほど。んー……後30分か」
 視線を上に移して時計を見て、彼は小さくため息をついた。
「長いなぁ……早く聞きたいのに」
「そ、そう?」
「ああ。だって、明未のその音、すっごく綺麗だからさ」
 不規則だったピアノの音は、いつの間にか童謡『チューリップ』になっていた。
「コンクール、かな。そう言うのには出ないの?」
「1回だけ出たことがあるの。その時は……言い難いけど、最優秀賞だった」
「へぇ〜。さすが」
「でも、それっきり」
 明未は小さく笑ってクラリネットのケースをピアノの上で開けた。
 入っているのは、黒光りするクラリネット。よく見ると、有名なメーカーの物だ。
「何で?明未だったら、プロになれるんじゃないの?」
「そんな事ないよ」と、笑いながら明未は続ける。「それに、私は、自由にやりたいの。与えられた曲じゃなくて、自分で見つけた、自分の好きな曲がやりたいの。誰に聞かせるとか、それで食べていこうとかじゃなくて、本当に、好きだからやっていたいだけなんだ。――屋上でやってるのは、外の方が、自由に表現できるからなの」
 思わず喋ってから、明未ははっと気がつく。
 自分は、何でこんなに熱くなっているのだろう、と。
「なるほどな」
 空は頷いて、笑いながら肩をすくめた。
「でもなぁ、俺は明未の音楽が聞けるっていったら何処へでも飛んでいくのに……その音、ここだけのものにしておくのは、勿体ない気がするけどな……」
 それを聞いて、明未の顔は一気に赤くなる。
 ここまで誉められたのは、久しぶりかもしれない。
 そして、思い出した。
「そうだ……! あの、空君?」
「んー?あ、俺の事、空でいいよ」
 彼の興味は、バラバラでケースに収まっているクラリネットに移っていた。
 明未は少し躊躇いがちに、進める。
「それじゃあ……空。昨日、飛んできたって言ってたでしょ?」
「ああ」と言いながら、空はその楽器の銀の金具に触れた。
「それって、空を――宙を飛んできたってこと?」
「そうだよ」
 瞬間、彼女の中で鼓動が大きく響いた。
 本当に、彼は飛んできたというのだろうか?
 ありえない事を、彼は言っている。でも、それを信じている自分がいる。
 空は明未をゆっくりと見つめた。
 その青い瞳に吸い込まれそうになって、彼女は慌てて言葉を発した。
「飛ぶ……の?」
「信じてない?」
「それは……そうだよ」
「だよな」
 空は苦笑して頭をかく。
「そりゃそうだな。――今はまだ明るいし、でも、暗くなるとな……」
 いろいろと呟いていた空だったが、やがて
「じゃあさ、明未。今日は早く吹いて、早く終わろう。そうしたら、飛べる」
「えっ……?」
「信じてほしいし。いい、かな?」
 沈黙。
 暫くして、明未は小さく頷いた。



「何を吹こうかな……」
 屋上の風に吹かれながら、明未はそう呟いた。
 いつもより少し早いせいか、景色が何処となく違って見えた。
 そんな彼女の様子を見て、空は隣でくすりと笑った。
「じゃあさ」
「?」
「俺のために、1曲吹いてくれよ」
「えぇ!?」
 瞳を大きくし、前進で驚きを表現する明未。それを見て、空はぷっと吹き出した。
「あははは……そんなに驚かなくてもいいだろ?」
「だ、だって……」
 大胆である。
「明未、素直なんだな」
 にやりと空は笑った。
「それじゃ、俺がリクエストしてやるよ。そうだな……ゆっくりの曲がいいな。昨日の曲みたいなやつ」
「あ、うん……分かった」
 照れて真っ赤になった明未は大きく深呼吸をした。
 気持ちをどうにか落ち着けて、楽器に息を吹き込む。
「――それじゃ、クラシックにするね」
「どもっ」
 と言って、空はぱちぱちと手を叩いた。
 ――それを境に、その場の音がしんと止む。
 彼女が奏で始めたのは風を思わせる曲だった。透き通った音色は高く響き、空気を震わせている。流れる旋律ははっきりと輪郭を現し、光と影が浮かんでいる。
「好きだな、この曲も」
 小さく、呟いた。
 旋律が変化する。長く伸びていた音は動き、それでもゆったりとした流れは変わらない。
 高音と低音はお互いに協調し合い、最初の流れは終わりに近づいていく。
 明未は目を閉じた。
――最後はよく目を瞑る。この方が、余韻をよく聞き取れるからだ。
 すっと、クラリネットの音がその空間から消えた。
 そして、それに代わって拍手の音が。
「綺麗だったよ」
「ありがとう。――お気に入りの曲なの」
 照れ気味で顔を伏せる明未。
 空は頭上を見上げ、大きく頷いた。
「それじゃあ、クラリネット置いてきなよ。俺、ここで待ってるから」
「逃げる気じゃ、ないよね?」と、笑い混じりに言ってみた。
「かもな」と、これまた笑い混じり。
 明未はくすっと笑って彼に背を向けた。そして、振り向いて
「すぐ行ってくるよ」
「待ってまーす」
 と、空の笑み。

 それにしても、彼は本当に飛ぶのだろうか。
 クラリネットを片付けながら、明未は再び考える。
「でも、本当、だね」
 ぱちんっと蓋を閉め、そう呟く。
 彼は飛ぶのだ。と、信じる。
 明未は音楽室を出て、屋上までのなれた道程を走った。
 屋上へ続く扉を開けるのを、彼女は何故か戸惑った。
 しかし、思い切って扉を開ける。
 一瞬、空が消えてしまったのかと思った。姿が見えなかったから。
 視線を遠くに移すと、やっと姿を見つけた。屋上の端にいたのだ。
 安全用のフェンスを越えた向こうである。
「空?」
 明未は名前を呼んでみた。
 それが聞えたのだろう、空は振り返った。
「早かったな」
「そりゃ、そうです」
 明未は空に歩み寄った。しかし、それは彼の「待て」というジェスチャーに止められた。
 空はにやりと笑った。そして、両手を広げる。
「明未、よく見てろよ」
 瞬間――空は後ろに倒れこんだ。そして、消えた。
 後ろは、宙なのだ。
 暫く、何が起こったのか理解できなかった。
「そ、空っ!!」
 明未は我に返って走った。
 フェンスを越え、端から下を覗いた。――が、そこに空の姿はない。
 ほっとして、その場に座り込んだ。
 そして、彼は何処に行ってしまったのだろう?
「驚いた?」
 空の声。明未は再び驚いて後ろを振り返った。
 そこにはすまなそうに苦笑している空の姿――が、中に浮かんでいた。
 まるで水の中にいるように、その体はゆっくりと揺れている。
 ――本当に、宙に浮かんでいるのだ。
「ああ……」
 驚いて、声が続かない明未。
 ふわりと上昇した空は、フェンスを軽々と越えて、彼女の横に着地した。
「やっぱ、驚くよな」
「そりゃ、ね……」
 やっと立ち上がって、明未は彼の姿をまじまじと見つめた。
「信じてくれる?」
「……うん。これ見て、信じないほど、私の頭は固くないよ」
「違いないな」
 空はあの笑みで肩をすくめた。
「秘密だよ、俺のこの能力」
「分かってるよ」
 それに、即答する。
 これはとても大事で、重い秘密なんだ。喋ってはいけないんだ――と、直感的に感じた。
「ありがとう」
 嬉しそうな声だった。

 ショックが完全に抜けてから、明未は何気なく左隣の空に聞いてみた。
「どうして空が飛べるの?」
「それは――」
 一瞬焦り、反応を探すように彼の視線が泳ぐ。
「ご、ごめん、今の無し」と、今度は明未が焦った。
「あ、ありがと」
 心底ほっとしたような空。
 その後、少しだけ、重い空気になった。
「――人はさ、誰でも飛べたんだ」
 と、小さく呟く空。
「昔は――っても、ずっとずっと昔だけど、人は皆飛べたんだよ、きっと」
「皆?」
「そう。でも、ある日、飛べなくなってしまった。人は、欲望の虜になってしまっていたから」
 空は大きく伸びをして頭上を見上げた。
「でも、人は再び飛べることを望んで、目指し始めた。――昔、飛んだことがあるから、本能的に飛べるって思ってたんだ。だから、何度も何度も失敗しても望みつづけた」
「それが、今の飛行機?」
「そーいうことかな」
 明未も同じように見上げる。
「結局、人自身、単独で飛ぶことは出来なかったけど」
「――ねえ、それって実話?」
「まさか。でも、これが俺の飛べる理由、なんてね」
「へぇ……」
 なんだか、笑ってしまった。
「私も飛べたのかな、昔だったら」
「飛べるよ、今でも」
 その言葉にびっくりして、明未は隣の空を凝視した。
「――え?」
 と、もう1度反応する。
「だから、飛べるよ。だって、俺がいるから」
 そう言うなり、彼の顔は笑顔に変わって、右手は明未の左手首を掴んでいた。
「へ?」
「飛べるって」
 手首を捕まれて、どぎまぎした明未だったが、次の少年の行動には叫ぶしかなかった。
 空は飛び降りたのだ。先程のように。
 もちろん、明未も。
「きゃぁー!!」
 落下感に思わず目を瞑ったが、今度は急に上昇感に変わった。
 さながら、ジェットコースターである。
「――驚きすぎだって」
 と、笑いの混じった声。
 明未はゆっくりと目を開けた。最初に見えたのは、空の青い瞳。
「大丈夫だって。その代わり、手、放さないでくれよ」
 気がつくと、明未は空に抱きついていた。
 慌てて離れようとしたが、足下が宙であることに気がついた。
「ああ……と、飛んでる!?」
「そーいうこと。だから、放さないでくれよ」
 空のほうは困るでもなく、明未を抱えている。
「これがホントの空中散歩」
「凄い……」
 明未はいつもの屋上よりも高い位置から見る景色を、驚きの眼差しで見ていた。
 夕焼け――景色は、赤くなり始めている。
 そして、自分が今、空にしがみついていることをようやく理解した。
 顔が、景色と同じように真っ赤になる。
「あ……」
 思わず覗いた空の顔に、彼女は小さく声をあげた。
 空の瞳の色が、青ではなかったのだ。それはまさに、今、夕焼けの色――
「うん?」
 彼は笑顔で首を傾げた。
「空の瞳って、本当に『空』みたいだね」
「ん?ああ……。まあな」
 もう、彼の不思議に驚くことはなかった。
 その感覚に麻痺してしまったのか。いや、おそらくは空を信じているからなのだろう。
 確かに、空は他の人とは違う。でも、人なのだ。
 心は、他の人と変わらない。姿だって、同じだ。だから、不思議でも、もう気にならない。
「俺は、空だから。この、広い空の化身だから。――なーんてね」
 途中まで真剣だった空の顔がふっと崩れて、2人は小さく笑った。
 ふわりと空気が動く。空が再び上昇したのだ。
「絶叫マシーンは苦手?」
「ううん」と、明未は笑顔。「どんな感じか分かっちゃえば、大好きだよ」
「そっか」と、空のにやりとした顔。
 2人は――実際には空が――急上昇する。
「俺も、明未と同じ」
「え?」
 風が、2人を飲み込む。
「自由でいたい。何にも、縛られたくない。縛る物が、自分であったって」
 風の中で、その声はあまりにも儚すぎた。
 明未は聞き返そうとしたが、止めた。その代わり
「いいね、空を飛ぶのって」
 と言って、彼の体から身を離す。
 今2人を繋いでいるのはきつく握った手だけだ。
「お、おい」
「大丈夫だよ」
 明未はにこりと笑って言う。
「だって、空がいるから」
 ――随分高く飛んできたようだ。
 空は驚きに夕焼けを瞬かせたが、すぐに
「違いないね」
 と、笑ったのだった。
 明未は自分が風になるのを感じながら、空と一緒に飛びつづけた。



「ごめんね、送ってもらっちゃって」
「気にすんなよ」
 明未の家の前。
 2人は一緒に帰ってきたのだ。空の家は、もう少し遠くにある、新築マンションらしい。
「それじゃあ、また明日」
 空は夕焼けの中を帰ろうと歩み始めた。
 それを「あっ」と言って明未は止める。
「うん?」
「え、えっと……」
 言い難いのか、明未は恥ずかしそうに笑った。
「今度、空のために1曲、作るよ」
「え、本当に!?」
 心底嬉しそうに彼は顔を輝かせた。
「今日、貴重な体験をさせてくれたお礼」
「俺、すっごく嬉しい……マジで」
 ここまで喜ばれると、言った方も嬉しくなる。
「俺、待ってるよ。その曲楽しみにしてる!」
「ありがとう」
 明未は小さく笑った。
 空は1度微笑んで、背を向けて走り出した。
 彼の姿が石階段の下に消えてから、明未は自分の家に入った。
「ただいま」
「おかえり。なんだか楽しそうな声ね」
 母親の声。そして、夕食の匂い。
「あ、お母さん。私、上でちょっと書いてるから」
「また作曲?ご飯、もう少しだからね」
「はーい」
 と言って、階段を駆け上る。
「ああ、宿題はちゃんとやるのよ」
 そんな、声が聞こえてきた。


                         ̄ ̄続く__
桃助
2003年06月20日(金) 20時17分31秒 公開
■この作品の著作権は桃助さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
こんばんわ、桃助です(^^)

さてさて、テーマ統一小説に参加させてもらっている私ですが、とにかく1人だけ、とびぬけて「長っっ!!」なので、上下に分かれております。
それでも長いのは…許してくださいな(汗

少しだけ、上の説明を。詳しくは、下に書いてありますが。
クラリネット:西洋の楽器で、黒い縦笛。よく、オーケストラや、吹奏楽で演奏される。
よく分からない人、すいません(汗 しかし、ピアノより、フルートより、リコーダーより、トランペットより、私はクラリネットが書きたかったのです。

それでは、長々としているのは本編だけでいいので(汗
下の方を、お読みくださいませ!

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ほぅ〜飛鳥様企画の統一テーマですか、そし今回が「空」かぁ〜空って言われると昔よく「空ってなんで青いんだろう?」と思ったことがよくあります。もちろん今となっては理由が分かっているのでつまらないですが、当時そのことを知らなかった僕にとってはとてもファンタジーな質問でよく物思いにふけっていたきがします。って自分の話しをしてもしょうがないんだ...作品の感想ですが、今の所「上」まで読ませてもらいました。相変わらずちゅーしょーが書く小説は長いですが(笑)その長さがとても意味がある内容なので読者としてはあまり長いというのは感じませんね。よかったです、というか文責がものすごく上手いですね。最初のほうはプロが書いてるのか!?と思うほどに文章力に驚かされました。まだ作品自体が終わってないのでなんとおもいえませんが、今の所とても楽しく読ませてもらっています。テーマが「下」からまたどう展開、基 統一して行くのか続き読ませてもらいますね〜それでわ〜 5 AT ■2003-06-20 22:13:15 dialup-128.14.194.203.acc07-kent-syd.comindico.com.au
合計 5
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